天神様は、いつから学問の神様になったのか... [長草のこと]
受験のシーズンには、各地の天満宮(天神社)は賑わってきた。長草天神社も。
菅原道真が学者ので出であった事や、若いときから歌が認めれていた事から、学問や勉強の神様として子供にも親しまれてきた。
また、「東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」の歌から、どこの天神社も梅が植えられ、シーズンになると梅の花が咲く神社として、人の足の向かう場ともなっている。
天神さんには、こうした穏やかで優しい雰囲気を持つ反面、先回の記事のように、災害や疫病をもたらす怖い神様としての顔も持っている。
いつから、こうした優しい側面がクローズアップされてきたのだろう。
菅原道真と天神さんが結びつく以前(10世紀以前ということです)から、天神さんには、自然を司る絶対的な神様として、人々に祀られていたわけで、自然の優しい面と厳しい面の両方を合わせ持っていたのは当然のことだろうと思う。
自然の恵みがあるからこそ生きていける反面、自然によって酷い目にも遭う(だから、天神さんは農耕の神さまでもあるわけで)...日本という国の自然と上手く折り合いをつけていくためにも、天神さんを祀る事は重要な意味を持っていただろう。
やがて、悲運のうちに没した菅原道真に対する同情と崇敬を元に、それに続いて起きた天変地異や疫病の流行が、政治闘争の時代というバックグランドを土壌に、天神さんと菅原道真を結びつけ、それまで人格の要素がなかった天神さんという神様に、学問や梅の花といった人間的な彩りを添える事になったのだろう。
とはいえ、いきなり菅原道真のそういった側面が前面に出てくる事はなかっただろう。やはり、時代が下り、技術が進歩し、自然をある程度コントロールをできるようになって、生きる事に余裕が出てきた時に、学問や梅の花の天神さんという面がクローズアップされれたのだと思う。
天神さんは、日本全国に、3953社(天満宮・天満神社・北野神社・菅原神社を含めて)あって分社の数は第3位である。もちろん、学問の神様として広がったのではなく、自然の神様・農耕の神様としてして広がっていったわけで...ここ長草の地に天神さんが祀られているのも、先人達が、この地で一生懸命に生きていこうとした気持ちの現れのように感じている。
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